太鼓眼鏡の似非教育学的考察

太鼓眼鏡のブログです。不定期更新ですが、よろしくお願いします。

人を知らなければならぬ

誰も寝てはならぬ的な。結構好きな曲です。

ほとんどタイトルの通りで人について書くなら人を知らなければならぬと。つまり言い換えれば、なんかしらについて語るのであればそれについて詳しく知らないとね、ということでしょうねきっと。

 

今日は教育工学会に行ってきました。午前中だけで体調があまり優れなかったので帰ってきてしまったんだけれど、若輩者の自分が言うのもあれだけれど学術的な場ではないのかもしれないと思ってしまった。

学会というのはあくまでコミュニケーションの場であって、研究の発表をして議論してよりよいものにしてこうぜとか、そのアイデアいいねていう感じというよりはどちらかというと「◯◯さんお久しぶりです!」のニュアンスが強いのだなあと。

これは教育工学会に多いものなのかなんなのかわからないけれど、人混み苦手な自分には少ししんどい場でした。

 

ので、気分転換も兼ねて新宿の紀伊国屋に行って来ました。行き帰りでようやく東京ファイティングキッズ・リターンを読み終え、代わりにMr. Penumbra's 24 hour bookstoreを買ってきました。とうとう洋書に挑戦です。ついでに英英辞典も買ってきたから頑張ります。そして次は学校と社会に再々挑戦。

  

Mr. Penumbra's 24-Hour Bookstore

Mr. Penumbra's 24-Hour Bookstore

 

  

学校と社会 (岩波文庫)

学校と社会 (岩波文庫)

 

 

ついでに好きなブログの読書猿からいくつか読んだ記事をピックアップ。

  • 「問い」を持って読む/あまりに基本的過ぎてあまり触れないこと 読書猿Classic: between / beyond readers (via @Pocket) pocket.co/soRe3d posted at 07:38:05
  • 100冊読む時間があったら論文を100本「解剖」した方が良い 読書猿Classic: between / beyond readers (via @Pocket) #longreads pocket.co/soReTT posted at 07:36:59
  • 続きを書く→この定義を知ることであなたの研究はスタートを切る (via @Pocket) pocket.co/soReTt posted at 07:34:08
  • 複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法 (via @Pocket) pocket.co/soReTd posted at 07:33:21
  • 必読文献が浮かび上がる→引用マトリクスで複数の文献の関係と分布を一望化する - 読書猿Classic: between / beyond readers (via @Pocket) pocket.co/soReCF posted at 07:31:45
  • 知らないことを知る技術ー未知の分野で文献調査を導く3つの表の作り方と使い方 読書猿Classic: between / beyond readers (via @Pocket) #longreads pocket.co/soReCM posted at 07:28:43

【東京ファイティングキッズ・リターン①】成長とは

こんばんは。今日の職業としての小説家の章は正直あまり面白くなかったので、別の本から。

 友だちに薦められて借りている本です。そこの三章に面白いことが書いてあったので引用。

日本でも世界でも、この成長ということ、つまりは過去を普段にリセットしてゆくという発想からなかなか自由になれない。(中略)J・S・ミルは言っています。『どのような究極の一点に向かって、社会はその工業的な進歩を続けているのだろうか。進歩が止まったとき、どのような条件がととのえば進歩が人類のもとから去っていくと期待できるのだろうか。』驚いたことに、見るは進歩や成長を、そうせねばならないという当為としてではなく人類の「病」としてとらえているのです。(p.39-41) 

 これと似たようなことを昨年開発学入門という授業で学びました(ろくに行かなかったけど)。ガンディーを代表する脱成長主義です。その根拠として、「だって世界中がアメリカみたいになったらどう考えてもエネルギーも食料も足りないでしょ」という発想があったと思うんですが、そのあまりにも単純な事実に当時は驚きました。

一方で、今手元にないから引用出来ませんが、「西の魔女が死んだ」では人間は、生物は成長を本能的に望んでいるのだというセリフが出てきました。一方では人生の終わりとその捉え方をテーマにして、また同時に生きている間は成長を続けることを望むのだというメッセージがありました。あの小説の場合西の魔女こそが脱成長の体現なのかもしれません。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

 

 

また「絶望の国の幸福な若者たち」では、現代の人間がコンサマトリー化している、簡単に言えばその日暮らし化してきているのだという記述があったと思います。明日なんかに希望持てないし今日が楽しければそれでいいのだ。これはある意味脱成長的な思考じゃないだろうか。

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

ただもう一つ面白い視点として、教育においてだけは、特に日本は成長を望まないんですね。もちろんいい教育を!と言ってはいるんだけれど、じゃあ新しいことに挑戦するかというとそうではない。あくまで今ある枠組みの中で最大限いいものをやろうという発想。だから行き詰まるんじゃないかと思うんだけどね。

個人的には教育もある程度多様化して、選択肢が増えることが大事だと考えています。だから大学も各々もう少し特徴をアピールしていきましょうよ。余談だけれど、内田樹の「最終講義」に「選ばれないリスクをとる」という内容があって、それがこの考え方にとても共通部分が多く面白かったのでぜひ。

 

少しレビューらしい雰囲気が出てきた気がしなくもない3日目なのでした。三日目かな?まあいいか。

 

では。

【職業としての小説家②】言葉について

今日は第二回小説家になった頃を読みました。このペースで一日ずつじっくり読んでいきたいですね。

ところで今日は学祭が始まる前の最後の日曜日でした。これからは通し稽古が始まるので、なかなかまとまった休みがとれなくなります。あんまり焦らずやっていきたいです。

そして今日は気分で手にとった西の魔女が死んだを読み終えました。これ映画やったのか。あんまり見たくないね。個人的には似たような話ではキッチンの方が好きでした。方がとか言っても仕方ないんだけれど。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

 

ついでに、今は授業の関係で以下の本を読んでいます。どっちも同じ教授の課題なんだけど、すごい量出してくるもんだからもうつんでます。論文読みたいなあ。

How to Lie With Statistics

How to Lie With Statistics

 

 

Social Research Counts

Social Research Counts

 

 

 

さて、では引用。

どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列にすぎない。(中略)言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。(p.37)

これは自分が今デモの言葉に感じる違和感をそのまま表現している気がします。「安倍は敵だ!」という言葉にどれだけの高尚なスローガンがあるんでしょうか。「許さない」で始まる議論にどれだけまともな結論が導かれる可能性があるんでしょうか。そこんところが大分勘違いしてるように思います。

個人的には反対なのだけれど、デモの人達とは少し考え方が違う気がする。かといって自分で声明を表現する場も気持ちもない。ある意味他人事で薄情な立ち位置をとっています。

 

もう一つ。これは前回と同じくやはり物を書くということに関して。村上春樹さんは「風の歌を聴け」を書いたときに、まず英語で書きそれを日本語に直すことで自分の言葉のリズムを得たそうです。

そのときにはあんまり英語は得意じゃなかったけれど、持っている言葉と表現を駆使して可能な限り簡単に無骨な文を重ねていきました。自分はどうしても英文を書くときに最初から堅苦しい難しい文を書こうとする。まずは中学生でも書けるような文を重ねていき、そこから構文や接続詞のような装飾品を用いて堅苦しくしてけばいいのかもしれない。

明日から試してみようと思います。

 

では。 

【職業としての小説家①】思考スタイルについて考える

 

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

 ミーハーなので買ってしまった…。正確には買うまいと思ってたんだけど、気がついたら手に持ってレジに並んでいた…。

のだけれど、読み始めたらやっぱり面白いので好きな文を引用しながらちょっと考え事をします。一気に読むと2日とかからずに読み終わりそうなので、少しずつ読むつもり。ちなみに最近は以下の本を適当に並列読み中。いつ読み終わることやら…。

 

教育×破壊的イノベーション 教育現場を抜本的に変革する

教育×破壊的イノベーション 教育現場を抜本的に変革する

 

  

世界はシステムで動く ― いま起きていることの本質をつかむ考え方

世界はシステムで動く ― いま起きていることの本質をつかむ考え方

 

 

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 

   

では、ここからは「職業としての小説家」の感想。今日は第一章だけ読みました。面白かった箇所の引用。

自分の頭の中にある程度、鮮明な輪郭を有する人メッセージを持っている人なら、それをいちいち物語に置き換える必要なんてありません。(p.20)

また知識の豊富な人なら、わざわざ物語というようなファジーな、あるいはよく得体のしれない「容れ物」を持ち出す必要もありません。(p.20)

あくまで僕の個人的な意見ではありますが、小説を書くというのは、基本的にはずいぶん「鈍臭い」作業です。そこにはスマートな要素はほとんど見当たりません。ひとりきりで部屋にこもって「ああでもない、こうでもない」とひたすら文章をいじっています。机の前で懸命に頭をひねっり、丸一日かけて、ある一行の文章制度を少しばかりあげたからといって、それに対して誰が拍手をしてくれるわけでもありません。(p.23)

この3箇所が特に面白かったところでした。村上さんにとっての頭がいいということや知識や小説の捉え方がわかる文だったと思います。

あくまで自分の思想が常にベースにあって、それを伝える手段が異なるだけ、ということなんでしょう。ただその手法によってかかる時間も違う。理論立ててわかりやすく自分の思想を伝えられる頭のいい人は、ストレートにそのメッセージを伝えることが出来る。知識がある人は自分の思想を自分の知識を使って具体例やアナロジーを使って説明出来る。それに比べて小説は村上さんの言葉を使えば「たとえば…」をひたすら繰り返す作業になる。

最後の文は、文章を書くということへの考え方の話で、最近自分が先生に散々言われてまだ実行出来てない毎日書けという指示はこういうところだろうと思う。この英単語は適切か、きちんと伝えたいことが伝わるのか。そういうことを考えながら日々頭をひねらせることでライティングの訓練が出来る。

 

明日はもう少し続きを読みます。面白かったところのただのまとめみたいになったけど、やっぱりレビューみたいなものって書くのが難しいな。また少しずつ書いていこうと思います。

 

何にせよ課題が多すぎて詰んでるので、課題の時間、仕事の時間、読書の時間、卒論の時間と上手くわけながらやっていこう。

 

ゼミでのプレゼンに向けてまとめ

先日まとめた記事を結局途中までで放棄してしまった。ストップ!中途半端!まあ無理な話ですが。

 

cyclemem.hatenablog.com

 

で、先日の記事の最後にやたら長い引用を付けたのですが、実際使うのは1つだけなので、その部分のみ再掲。

 

3大学は何を教えるべきなのか、ということを考えていきたいと思いましたし、そういう視点から僕が分野にしたいと考えているICT教育のニーズが見えてくるように思います。つまり、大学というのはもちろん学問の場である反面、一方では人材を社会に送り出す機関でもある。となると、その時代にあった人間を育成する必要があり、そこから企業の要請にあった教育を、という発想が出てくるんだと思います。でも今までは、企業で必要な能力がはっきりいってそれほど高くなかったから、大学教育+社内研修で足りた。でもその能力がどんどん複雑化・高度化していくと、社内研修で足りない部分を補えなくなる。そこを大学にどうにかしてくれ、というのが昨今の産学連携の流れではないかと今日のフォーラムで思いました。でも従来の学術教育は必要なわけで、となると学士課程を一年伸ばすとかそういうことが必要になるかもしれません。そこで例えばパワポ見ればわかるだろこれ!みたいな授業を根こそぎオンライン化してしまってみんなが1.5倍速で授業を見る、で授業の時間にはアクティブラーニングなりプロジェクト学習なり発展的な内容を抑えていく。要するに従来の学習をより公立的にすることはできないのかという発想です。勝手にちょっと面白いんじゃないかと思っている。考えてる人たくさんいそうだけど。

これはぴこぴこゲームの話です。つまり会社側の要求が大きくなったから大学に今その差をどうにかしろ!と言われているわけで。それにどこまで応え続ける必要があるのか否か。実際問題限界があるよね。というのが、このフォーラムの話だったわけ。

で、ここで僕は「あ、ここニーズあるじゃん。テクノロジー介入出来そうじゃん。」と思ったのです。漠然としていてかなり抽象的ですが、ITの教育利用が遅いと散々言われている日本の大学に、かなり深刻なニーズが潜んでいるのではないか!

それが僕が言いたいことでありました。

 

ということで、まとめると(前回も込みで)

・人々は低クオリティだろうとなんだろうと、必要なものは使うはずだし、作っていくはず。そしてその「必要」は現在の社会情勢から大学自体に内包されているんじゃないか!

ということが言いたかった。ああ、2文になってしまった。

まあとりあえずそういうことでした。では、プレゼンで今のがどれだけ伝えられるか…頑張ろ…

 

 

オンライン教育は何かをもたらすのか

今度ゼミで15分ほどの簡単なプレゼンをするように言われたので、簡単に内容をまとめます。テーマは夏休みに行った京大でのインタビューについて。ただせっかくなのでついでに行った大学生研究フォーラムについても少し話せたらなと思う。

 

当日の日記によれば、2つのことを学んだのだそう。そのうちの1つは個人的な内容なので割愛し、もう1つをまずは引用。

一つ目に、まず今教育とテクノロジーという文脈で研究を進めている中で、質保証という考え方があります。要するに例えばオンラインで教育サービスを提供する場合に、その質的な保証は誰がどうするのかという問題です。しかしこの質というのはもしかしたら利用者にとってはあまり関係ないんじゃないかというご意見をいただきました。つまり、Quality<Needsであって、ニーズがあるコンテンツはどんなにコンテンツがひどくても使われるのではないか、ということです。そこから発展していくこともあると思いますが、使用する・しないの判断は質では議論されていないのではないかということです。

この内容を自分なりに、更に少しまとめます。

 

  • 今後オンライン教育は必要とされるところで、目的先行で作成・使用されていくだろう。

 つまり今公開されているようなMOOCsOCWのような一般公開式のオンライン教育よりも、何らかの目的を持って作成されるものが使用されていくだろうということです。更に噛み砕いて言い換えれば、自分達が使いたいものを自分達で作っていくべきであり、そうやって作られたものが基本的には今後用いられるだろうということだ。そしてそれをオープンにして他の人が使うというのはむしろ副次的な効果としてのみ期待されていくということ。公開すること自体を目的としてきた今までのOERとはまた少し発想が異なる。

  具体例を示すと、京都大学では行列やベクトルを自学出来るようにOCWを用いて特別なコンテンツを作成したそうだ。これは指導要領改訂により、新入生が行列・ベクトルを学んでいないことへの対策として行われたものであり、高校内容を教えることに抵抗のある教授陣にはニーズがあったのだろう。

 もう1つは、オンライン化が日本だと遅いて言うけど、実際塾業界では普通に用いられていることもここに原因があると思う。受験という強いニーズがあるところに、誰でも学習出来る仕組みを導入したことで普及したのだろう。

 これらの例はクリステンセンの破壊的イノベーションに適当出来るように思う。まだ読了していないので、また後日それについては書こう。 

教育×破壊的イノベーション 教育現場を抜本的に変革する

教育×破壊的イノベーション 教育現場を抜本的に変革する

 

 

と箇条書きで書こうと思ってたけど、ここまで書いて疲れたので残りは後日。

 

次書くときに忘れたら嫌なので、大学生研究フォーラムについての感想を事前にシェア。

 

そして二日目の今日は大学生研究フォーラムというものにお邪魔しました。今までにも何度かフォーラムには行きましたが、今までで多分一番学士課程が少なかった気がする。内心ビクビクでしたが優しい人ばかりで救われました。テーマは「大学に必要なのはプロジェクトかプロジェクト学習か」。主に実践されているプロジェクトの紹介から、それらについてのディスカッションという形でした。忘れないうちにまとまってませんが、思っていることを幾つか。
1プロジェクトベースの学習が導入されればされるほど、人文系や役に立たない学びの未来は危ういであろうこと。僕が大学で経験した、頭をかち割られるような、でもうまく言語化できない価値観を根底から揺さぶられるような体験がなくなってしまうようで個人的にはとても危惧しています。学習なんてのは全てが全て綺麗にデザインされていて、役に立って、成果が目に見えてというものではない気がするんだという話です。
2大学の未来はそこまで明るくないかもしれないと感じたこと。それは実践が紹介される中で、その登壇者と聴衆の方々の反応を見て感じてしまったことです。登壇者の方の紹介しているプロジェクトは素晴らしいんだけれども、でもそのプロジェクトを汎用的に用いるには今後どういう視点がありえるか、という部分が欠けているように思うんです。そのままじゃ、すごいでしょって自慢で終わってしまってるんじゃないか。また聴衆の方はほとんどが大学職員や教員だったわけですが、そのプロジェクトに対しての反応は「すごいねえ」「こういうとこがだめだ!」「やってみたいけどねえ」とかなんですね。今自分の大学がやっている取り組みとの類似点を探したり、そこにどういう風に活かせるかという考え方や、自分の大学の目的や特色とそのプロジェクトは本当にあっているのかという議論が徹底的に欠如していると感じました。特に同じプロジェクトを商品化して各大学に用いていくようなやり方は思考停止の画一化ではないでしょうか。
3大学は何を教えるべきなのか、ということを考えていきたいと思いましたし、そういう視点から僕が分野にしたいと考えているICT教育のニーズが見えてくるように思います。つまり、大学というのはもちろん学問の場である反面、一方では人材を社会に送り出す機関でもある。となると、その時代にあった人間を育成する必要があり、そこから企業の要請にあった教育を、という発想が出てくるんだと思います。でも今までは、企業で必要な能力がはっきりいってそれほど高くなかったから、大学教育+社内研修で足りた。でもその能力がどんどん複雑化・高度化していくと、社内研修で足りない部分を補えなくなる。そこを大学にどうにかしてくれ、というのが昨今の産学連携の流れではないかと今日のフォーラムで思いました。でも従来の学術教育は必要なわけで、となると学士課程を一年伸ばすとかそういうことが必要になるかもしれません。そこで例えばパワポ見ればわかるだろこれ!みたいな授業を根こそぎオンライン化してしまってみんなが1.5倍速で授業を見る、で授業の時間にはアクティブラーニングなりプロジェクト学習なり発展的な内容を抑えていく。要するに従来の学習をより公立的にすることはできないのかという発想です。勝手にちょっと面白いんじゃないかと思っている。考えてる人たくさんいそうだけど。
4今回問題視されている主体性のない大学生として一意見を言わせていただくと、偏差値一辺倒のあんな受験システムで主体性なんて身についてるわけないだろと思う。なんとなく分野が一緒で偏差値がちょうどいい大学に来た学生に主体性を期待するのがまず間違いではないか。さらに言えば、これは受験が悪いと言えばそれまでだけれど、例えば今日のプロジェクト学習の具体例をそのまま受け入れようとした某大学たちのように、「これをやればうまくいく!」みたいな特効薬をあほみたいに信じ込み、グローバルなんちゃら学科設立して、ていう「画一的な特色」を大学が歌っている限りは、そこに誰も魅力なんて感じないし、主体性なんて持てない。各大学が自分たちの独自の立ち位置を模索して、それを受験生にも企業にもアピールしていかないと「乱立された中の一大学」なだけなんだよね。これは内田樹さんのアイデアに近いんだけどね。「選ばれないリスク」を取らないことが大学の一番の病巣なんじゃないか。また一方で関係者に話を聞くと文科省とのやりとりもかなり大変そう。大学の自治なんて言葉をふと思い出すわけ。 

 

 

卒論に向けてのメモ2

  • ちょっと大学に行けば実際に会える大学生に教えてもらうことで、内容はさておきいいお兄さんお姉さんに教えてもらってるような親近感を得るとか。そういうアプローチで内発的動機づけを高めていくような仕組みが今後必要なのかもしれない。 posted at 01:13:22
  • まとめると、日本において学習行動を促進するのにはID的アプローチ以外にももう一つ学習行動自体を認知させるという方法があるのではないか、という仮説をたてた。つまり他者も学習していて、自分もその一員であるという認識を持つとか。 posted at 01:12:34
  • そのためにはむしろ映画みたいな高予算の動画よりも低予算でちょっと見にくくてもくだらないジョークが入っていたり会いにいけるアイドルだったりするほうがユーザーは増えるんじゃないか。学習自体も促進されるように思う。 posted at 01:11:23
  • 端的にいうと、世間一般にオンライン教育を普及させるためにはコンテンツそのものの質をあげるよりも、どうユーザーに授業を受けているという行為自体の実感を持たせるかではないか。 posted at 01:10:31
  • 田口真奈先生の研究でも、視認出来ない遠隔地にいる学習者が学習行動を促進ないしは阻害するという結果が出ていたし、やはりインターフェースの影響はでかいのではないか。 posted at 01:09:49
  • この場合オンライン学習を促進しているのは学習内容やよくデザインされた教材なんかではなくて、その仕組によって自分が学習している状態を何らかの形で肯定か認識してくれている存在なんじゃないか。 posted at 01:08:59
  • その場合schooやmanaveeのようなアプローチはポジティブに機能する可能性がある。つまり他の人がコメントをしていることで、見ているのは自分だけではないことが実感として得られるし、先生への親近性があるだけで見てくれているような気になる。 posted at 01:08:08
  • その場合オンライン教育が普及するのはかなり難しい。行為自体が目的化するにはその行為が社会的に認められている必要があり、それに対しオンラインの学習はどこまでも孤独な活動で、その活動自体を視認してくれる相手がいない。 posted at 01:07:09
  • 実際問題授業内容よりも出席した事自体が問われる大学の授業もそうなわけで、行為それ自体が目的化している現象はかなり普遍的なものなのかもしれない。 posted at 01:06:12
  • 同時にアーキテクチャの生態系で紹介されていたように、日本人のウェブ利用は繋がりの社会性(=内容よりも行為自体が目的化したコミュニケーションを好む傾向)が大きく影響しているとすると、そもそも教育コンテンツの中身があまり重視されていない可能性もある。 posted at 01:05:35
  • でも俺が考えてるのは、インターフェースには文化的影響が色濃くあるんじゃないかと思って、そこに学習の促進を促すような仕組みがあると仮定している。例えばschooならばニコ動みたいなコメント方式だし、manaveeならば先生の親近性だし。 posted at 01:04:41
  • 言われていることは理解出来るけど返しが思いつかない。ようするにオンライン授業には、ヘルパーがついてるMOOCsやオンライン大学みたいなものと完全に自主学習のものがあり、後者の場合は修了率とか関係ある?て聞かれてるんだよな多分。 posted at 01:03:49
  • 先生への返信考えなきゃ(白目 posted at 01:02:35
  • ひと通り全部英語でやって英語勉強しないとやばい。論文も映像もメールも会話も英語英語英語英語。(死にそう posted at 01:02:20
  • ちょっとずつプログラミングの勉強も再開させよう。教育工学やるのにプログラミングはやっぱり無駄じゃないみたいだし。 posted at 01:01:56
  • 今日の分修了 posted at 00:19:07
  • Udacityはスキルの習得を目的としているわけだから、むしろ何度も繰り返し学習することは推奨されるべきではないか posted at 00:15:49
  • 向かないない posted at 00:15:22
  • でもこれ前回受けたときの解答が残ってるから再学習には向かないない posted at 00:14:33
  • Udacityで Intro to Statisticsを受け直す posted at 00:13:09