太鼓眼鏡の似非教育学的考察

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【東京ファイティングキッズ・リターン①】成長とは

こんばんは。今日の職業としての小説家の章は正直あまり面白くなかったので、別の本から。

 友だちに薦められて借りている本です。そこの三章に面白いことが書いてあったので引用。

日本でも世界でも、この成長ということ、つまりは過去を普段にリセットしてゆくという発想からなかなか自由になれない。(中略)J・S・ミルは言っています。『どのような究極の一点に向かって、社会はその工業的な進歩を続けているのだろうか。進歩が止まったとき、どのような条件がととのえば進歩が人類のもとから去っていくと期待できるのだろうか。』驚いたことに、見るは進歩や成長を、そうせねばならないという当為としてではなく人類の「病」としてとらえているのです。(p.39-41) 

 これと似たようなことを昨年開発学入門という授業で学びました(ろくに行かなかったけど)。ガンディーを代表する脱成長主義です。その根拠として、「だって世界中がアメリカみたいになったらどう考えてもエネルギーも食料も足りないでしょ」という発想があったと思うんですが、そのあまりにも単純な事実に当時は驚きました。

一方で、今手元にないから引用出来ませんが、「西の魔女が死んだ」では人間は、生物は成長を本能的に望んでいるのだというセリフが出てきました。一方では人生の終わりとその捉え方をテーマにして、また同時に生きている間は成長を続けることを望むのだというメッセージがありました。あの小説の場合西の魔女こそが脱成長の体現なのかもしれません。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

 

 

また「絶望の国の幸福な若者たち」では、現代の人間がコンサマトリー化している、簡単に言えばその日暮らし化してきているのだという記述があったと思います。明日なんかに希望持てないし今日が楽しければそれでいいのだ。これはある意味脱成長的な思考じゃないだろうか。

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

ただもう一つ面白い視点として、教育においてだけは、特に日本は成長を望まないんですね。もちろんいい教育を!と言ってはいるんだけれど、じゃあ新しいことに挑戦するかというとそうではない。あくまで今ある枠組みの中で最大限いいものをやろうという発想。だから行き詰まるんじゃないかと思うんだけどね。

個人的には教育もある程度多様化して、選択肢が増えることが大事だと考えています。だから大学も各々もう少し特徴をアピールしていきましょうよ。余談だけれど、内田樹の「最終講義」に「選ばれないリスクをとる」という内容があって、それがこの考え方にとても共通部分が多く面白かったのでぜひ。

 

少しレビューらしい雰囲気が出てきた気がしなくもない3日目なのでした。三日目かな?まあいいか。

 

では。