太鼓眼鏡の似非教育学的考察

太鼓眼鏡のブログです。不定期更新ですが、よろしくお願いします。

大学の国際化に向けて (11/14 Academic Conference @ICU)

昨日大学ランキングや大学の国際化をメインテーマとしたカンファレンスに参加してきました。カンファレンスと言ってもおよそ3時間ほどの小さい会でしたが。

大学の国際化にはとても興味があったので、伺ったのですが内容的には結構モヤモヤしました。世の中簡単な問題が少なくて嫌になりそうです笑。

全体を通して考えたことをまとめます。

まず大学ランキングでの上位を目指すという考え方にはある程度賛同します。もちろん大学の価値はそれだけではないけれど、1つの指標として、ないしは学生の国際的な移動が起こっている中で知名度はある程度大切だし、ランキングが1つの指標となっているから。

一方でその改革の進め方には疑問が残ります。現状大学ランキングでは、日本の大学は国際的な分野で非常に弱い。だからこそ国際化を図ろう!というのはちょっと安易すぎるんじゃないでしょうか。

留学生の呼び込みや海外留学経験者の増加を目指す運動をするのは結構なことですが、そのために各大学が持つ強みや校風を見失ってはいけないと思います。本当にトップ校は英語で授業をするべきなんでしょうか。ICUAIUのように一部の大学が受け入れるのではいけないんでしょうか。

また留学した人や留学生が学内に増えることでどれだけ本当に国際化出来るのか。というか国際化てなんだ。グローバル人材てなんだ。

僕はこの点に関しては内田樹さんに同意で、各大学が自分の個性を前面に押し出すべきだと思います。英語で授業なんて、どの大学でもやったら破滅するんじゃないか。

ちょっと今日は文章書くの疲れたので、また思い出したら書きます。

では。

フランス同時多発テロについて (11/15 facebook投稿より)

久しぶりに投稿します。国旗にプロフィールを変えるつもりはないし、けれどしっかり考えていることはまとめておきたいので。
まず今回フランスで被害にあった方々へご冥福をお祈りします。
実は僕は全くテレビや新聞を読まないし、ニュースアプリもほとんど消してしまったので何となくしか事件の概要を知りません。でもまあそれがあまり悪いことだとも思わない。


今世界ではフランスだけでなくいろいろなところで同様の事件が起き、難民問題に揺れ、テロに怯え、という状態。その一つ一つを詳細に知ることは難しい。だからこそ、そういう可能性があるのだ、ということを常に頭に入れておくことが大切なのだと思います。

 

情報社会と呼ばれる現代では、ニュース見れば何でもわかるような気になります。でもその情報のほとんどが日本人がフランスの現状を見て書いたものでしょう。それがどれだけ現実をきちんと映しているんでしょうか。

 

無限に情報が溢れているからこそ、得られていない情報、見落としている情報、知らない現実が山のようにあるのだという想像力が大切なんだろうと思います。

 

 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

 

 

先日「リトル・ピープルの時代」という本を読みました。国民国家など大きな物語、ビッグブラザーが消滅した現代は、リトル・ピープルの時代です。あなたと私の正義は違う。その差異から対立が起きる。まず大前提が違うのだ、ということ。それが一番大切。

 

もう一つ、誰もが父になる時代は終わり、誰もが父である時代になったのだということ。この表現は本から借りています。つまり僕らは普通に生活をしているだけで誰かに影響を与えてしまう。今回のことだって、元を正せばと考えていけば自分に返ってくる。なんの気なしにしたことが周り回っていろいろな形で返ってくるんです。


フランスの自業自得と言いたいわけじゃなく、加害者側の状態もしっかり考慮すべき。誰にも知られていない悲劇の存在にも想像力を働かせるべき。あなたと私は違うのだと認識すべき。頭でっかちな人間なので、理想論ばかり並べました。

 

最後に結論として、今回のことに原因なんてものはないでしょう。善悪だって人によって判断基準が違う。けれど少なくとも平和な状態とはいえない。それはテロが起きたからではなく、テロが起きる可能性がある世界だからです。被害者が怯えているからだけでなく、加害者になる可能性がある人がいるからです。
そんな複雑な世界で何が出来るのか、何を考えるべきなのか。
書いていたらまとまるかと思ったけれど、未だにモヤモヤは続きます。

リトル・ピープルの時代

2015/10/21
一昨日リトル・ピープルの時代を読み終えた。簡単なまとめと自分なりの付け足しを記録しておく。 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

 

 まず全体を通して、前提として世界は変わったのだという認識の根拠とその変わった世界を規定しているシステム(壁)に我々人間(卵)はどう関与していけばいいのかという疑問への解答を示すことを試みている。前者の根拠を著者は日本の文学やポップカルチャーを通して、社会がそれらに求めるものの変化を通して明らかにしていき、その作品群の在り方(具体的には仮面ライダーの変化)を通して答えを得ようとしている。

例えば第一章では、村上春樹が「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」という2つの問題への対処の仕方、著者の言葉ではデタッチメントとコミットメントを通して壁への対処法を模索していることを示す。そして村上春樹は以前はデタッチメントに倫理の在り方を求めていたのに対して、1Q84ではコミットメントを正義として定めている。しかし彼のコミットメントでは、自身は責任を負わず母的存在にその責任を負わせることで自分は被害を被らない。例えばねじまき鳥クロニクルでは、主人公はシステムの象徴であるワタヤノボルを意識の中で殺害するが、その結果同時点に現実でワタヤノボルを殺害した妻クミコが逮捕されることで物語が終わる。そして1Q84ではほとんど初めて村上春樹の小説内で主人公が父になる。つまり村上春樹の問題は「どう父になるか」である、と言える。しかし現代社会は個々人が無意識に「父になっている」時代であり、父でありながらどうお互いが関わるかが課題となっている。あなたとわたしの正義は違う。

第二章ではこの観点から日本のポップカルチャー、特に仮面ライダーを中心としてヒーロー像を議論する。当初大きなものの象徴であったウルトラマンガメラに対して、仮面ライダーは初代では彼自身ショッカーのなりそこないであり、その後の仮面ライダーはベルトさえあれば誰にでもなれるものとなっていく。「光の国」から来たウルトラマンに対して、仮面ライダーは徹底的に内部から生じた存在である。ここで「正義」の問題は徐々に仮面ライダー同士の闘いに反映されていくことになる。つまりあなたとわたしの正義は違い、誰でも仮面ライダーになれる時代において、昨日の友は一歩間違えば今日の敵なのだ。大きな物語がなく、個々のアイデンティティ不安が溢れる時代でどう生きていくのか、が仮面ライダーの課題となっていく。

ここで面白いのはその集大成としての2つの仮面ライダーに対する議論だった。1つは仮面ライダーディケイドであり、もう1つは仮面ライダー電王だ。ディケイドは今までの仮面ライダーの世界をつなげてしまうグローバリゼーションの象徴であり、誰もがつながってしまうインターネットの比喩とも言える。一方電王は拡張現実の象徴であり、自身のキャラを分割して生活する現代社会の人々の在り方と一致している。

正直この本は自分にはまだ難しく、答えに至るまでの過程はほとんど理解出来なかった。ので、ほとんど抜き出し的にわかるところのみを抜き出して読んでいる。
また補完的に随時追加していこうと思う。

最後にまとめると、現代社会は仮想現実ではなく拡張現実の時代であると著者は結論づけている。セカンドライフアメーバピグが流行った仮想現実の時代から、現代社会からデジタルの世界へどうつなげていくのかという拡張現実の世界になっているのだ。自分をどこまで拡張していくかがこれからの課題となっていくだろう。

一方で、著者は拡張という言葉を用いたが、それは物によっては分裂とも表現出来るのではないか。前述の電王の在り方は確かに自分に他者人格を追加していくことで拡張しているが、そこで表現される私の「キャラ」はある意味自身のアイデンティティを切り貼りした結果ともとれる。

またここでやはり認識されるのは教育の周回遅れだ。今ようやく教育は仮想現実の時代の入り口に立とうとしている。想像力において特異な環境にあり、その想像力は現代社会の要請によるものだ、というのがこの本の根本的な考えだが、それを真とするならば社会の要請と教育の実情の格差は目に余る。この考えをヒントに下流志向やアーキテクチャの生態系を再度読みなおしてみたいと思う。

補足的にだが、本論の根源にある考え方(想像力は社会要請の反映)は村上春樹のオリジナリティ論とほとんど一致している。オリジナリティは出た直後にはほとんど認識されず、むしろ批判の対象とすらなるが、その後その影響を受けたものが溢れ出てオリジナリティが薄れていく頃にようやくそれは認識されるのだ。だからこそ残ったもの、インパクトを与えたものこそは社会要請に答えているものであると判断出来る。この認識はアーキテクチャの生態系においてもほとんど同じかもしれない。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 

 

  

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

 

ちなみに次に読んでいる本は「知的トレーニングの技術」。読書猿のたね本ということで期待してる。今のところそこそこ面白いけれど、先にこのブログを読んでなかったらちょっとやめていたかも。

アキラ効果を確認する『知的トレーニングの技術』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

読書猿ブログはこの一冊から始まった:『知的トレーニングの技術』復活を知らせ再び強く勧める 読書猿Classic: between / beyond readers

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)

 

 

英語教育の目的と手法

今日ゼミであったことを簡単に。

英語教育において伝統的な文法を中心として教師が生徒に話し続けるようなスタイルの学習と生徒中心のアクティビティを重視したspeakingとlisteningを中心とした学習とでは、後者のほうが圧倒的に強いことがわかっているらしい。

で、ここで議論になったのが「なぜここまで研究が進んでいるのに応用されないのか」。

 

個人的な考えとして、

1.ニーズが合わないのではないか

2.教育現場の特性のせいで変えるのが困難なのではないか

の2点をあげる。

 

 

1.ニーズが合わないのではないか

これは生徒中心の学習よりもとにかく多くの知識量を板書し、ノートに写し、覚えやすい方法を習い…という従来の方法の方が学校のニーズに合ってるんじゃないかということだ。もしくは合っていると認識されているんじゃないか。

なぜなら英語を喋れるようになることが目的である英会話教室では学習者中心の学習なんてもう当たり前すぎることになっているからだ。つまり日本の学校の英語教育は喋れるようになること、ではなくて、よりテストでいい点をとれるようになること、を目的としているから教師中心の知識偏重型の方が断然効率がいいのだという判断が暗黙のうちにされているんじゃないか。

 

2.教育現場の特性のせいで変えるのが困難なのではないか

教育現場はそもそも変化を苦手とする。各々には自分のやり方があるし、生徒も教師も楽な方に流れる。しかも評価方法のテストが統一されてるから、とてもじゃないが個人レベルで勝手なことは出来ない。

だからICTは予備校業界に先に広まった。今までの学校と同じような時間割形式の予備校だと通えなかった部活をやっている連中がほとんど全員映像授業に流れていった。

日本人はface-to-faceの授業を好むそうだが、それは経験に根付いているから予備校での経験なら特にないというのも1つの理由かもしれない。

また最近のアイデアとして、テクノロジーを用いて学習しているときに重要なのは身体がどこにあるのかではないかという案からも某映像授業の予備校は面白い。授業は基本的に予備校でしか受けられないため、受講室には常に人がいるしそのうちのほとんどが授業を受けている。例えそれが違う授業で、違うタイミングで受けていたとしても、学習環境が近ければ人間はオンライン上にオフラインのそれと同じ感覚で入っていけるのではないか。

 

とりあえずメモということでまとめてみました。では。

NSフォーラム

今日はNSフォーラムに参加してきました。内容としてはデータサイエンティストの要請とそれへの1つの答えとしてのMOOCsといったところ。

教育学以外の方のMOOCsに関する講義を聞けるのは珍しいのでとても興味深かった。反面、MOOCsをあまりにも神聖視というかイノベーションとして捉えすぎているとも感じた。

もちろん教育機会としてMOOCsは優れているし、適切に用いられることでデータサイエンティストの数が増える可能性は否定出来ない。しかし、その修了者がほとんど学位所持者であることを考慮すると今いるデータサイエンティストが暇つぶしにやって能力を少し上げるくらいのことが現実で起きていることなんじゃないか。

特に日本では放送大学やJMOOCの受講登録者の年齢層を見ればわかるように、定年後にそれこそ暇つぶしに学位をとるご老人が多い。若者で、しかも統計学なんてさっぱりだけどちょっと興味あるんだよな、という人へのアプローチを考えない限りはほとんど効果はないのではないかと予想している。

少し話に上がっていた滋賀大学?の統計学部?の新設に関しても同様で、統計学に興味のある人材がどのくらいいるのか知らないけれど、定員割れしそう…というのが正直な感想。

統計学を学んだことによるメリット(就職率とか年収とか)が明らかに提示されて、知名度が一般化しないとね。

統計学は最強の学問である」から統計学自体はブームだと思うのだけど、どうしても初心者用の本と学者御用達の専門家向けの本の2択になってしまっている。その間の橋渡し的な役割を担う本や講座が必要なんじゃないだろうか。

R/SPSS/PSPPとの格闘

今日したこと。備忘録的に。

まずSPSS環境を家でも作れないかいろいろと試すが挫折。PSPPの存在をしる。

とりあえずアクセスするも落とし方わからず死亡。なんかいろいろダウンロードさせられたりしてもう意味わからなくなる。

MacPortsなるものを通じてダウンロードが完了。流れとしては

Xcodeを準備>MacPortsをダウンロード>ターミナルでなんかコマンド打つと勝手に読み込む

という感じ。

適当にサイトをあさってたら出てきました。

PSPPにアクセス!するもGUIの方が使えず。これまた準備大変そうで断念。そのままターミナルで作業を続けるも案の定複雑で断念。

Rで.savファイル開けないかなーと思ってググるとlibraryのforeignというものを使えば行けるらしい!早速ダウンロードして調べたコマンドを打ち込む。csvファイルに変換!いけた!!

*なんかエラーめっちゃ出たけどまあいいか。

いけたけどRの使い方よくわかんないし、結局課題SPSSじゃなきゃ出来ないしどうしようかなー(いまここ)

でもまあデータ変換してようやくデータの概要を見れたのでいいかなと思ってる。使えそうな変数名だけピックアップしておこう。

 

どうでもいいけど、PSPPてSPSSのSとP入れ替えただけかワロタ

ここさけ

今日はここさけを見てきました、と。

 

その前に午前中はゼミがありました。そこで空間と時間に関する議論がありとてもおもしろかったのでメモ。

空間性と時間性というのがオンライン空間と現実空間でどう消費されているのか、という議題でした。

例えばInstructional Videoを見ているとき、某予備校のつまらないビデオを見ているときはどうしようもなくパソコンの前で画面を見ている自分を意識するのに対して、ニコ動を見ているときは動画にのめり込んでいるような間隔になります。

他にもアクティビティの多いプログラミング系の授業の方が、実際の授業に近い感覚を持って授業を受けることが出来、そのせいか2時間くらい平気で授業を受け続けることが可能です。

 

こういった物による自分の身体性の意識の変化、時間感覚の変化は結構大事だと思っています。今は5分のビデオが長いと思われてしまうけれども、その学習空間を出来るだけ現実空間と同じにしていくことで、15分くらいまで見れるようになるかもしれない。つまり時間という制約がなくなる可能性があるということです。

もしくはニコ動みたいに、「面白い」「わかりやすい」といった反応をコメントで書き込むシステムを動作させれば、よりライブ感が増すことに寄って集中力が高まるかもしれません。

Instructional videoにおいて、ヴァーチャルリアリティーをどう作り出すか、が今の自分の1つの研究したいテーマなのかもしれないと思った一日でした。

 

ついでに、今読んでいるリトル・ピープルの時代という本がとても面白いのでじきに感想書きます。

 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

 

 

これも今課題で読んでいるやつ。難しいけれど面白い。 

教育・心理系研究のための データ分析入門

教育・心理系研究のための データ分析入門

 

では。