太鼓眼鏡の似非教育学的考察

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エリート教育に望みたいこと

元記事:

blogos.com

 

エリート教育、即ち高等教育=大学に望みたいことについての記事。
著者は、所謂「実学教育」や「愛国心教育」は、ある意味で排他的であり、共に多様性とは正反対の方向に行きかねないと批判し、

「古今の思想/哲学を出来るだけ幅広くとり上げ、各人が徹底的に追体験し、考え抜く、そういう教育を中心」におき、
その主目的を
「自分の中にいつも自己/エゴを離れた、第三者の客観的な眼を持ち、自分の思考や行動にとらわれすぎることなく、必用に応じて変化できることをもって成熟とし、そのような人格の形成を目指すこと」
とする教育が望ましいと主張する。

こうした主張の裏付けとして、元官僚であるうさみのりやさんの以下の発言を引用している。
『日本の(少なくとも文系)教育って言うのは「頑張れば頑張るほど市場から、リスクから遠のくように出来ている」んですよね。小さな頃から「自分のしたいことを自由にする」とか「自分の興味があることを極める」だとかいったことよりも共同体の倫理に従うことが美徳とされる。』

更に、著者自身が感じていた高校時代の違和感を教師から暗示される『勉強を頑張れば、安全圏入りできるよ』、『勉強を頑張って、巨大な組織、資格、権威等の内側にはいって、自分を隠して順応すれば生活が安定するよ』というメタメッセージにあるとし、
この「安全圏入り」が今や最も危険な道だと主張する。

なぜなら、そうした曰く出世ルートを必死に登った人々は、
・友人がいない/つくれない
・一つの価値に依存しすぎる
・自分を自由に表現できない
・組織がないと何もできなくなってしまう
という恐ろしい状態になってしまうのであり、このような『心を弱くする』、『ナイーブになる』ための教育を受けてそれを当たり前としてしまうことは真から恐ろしいことらしい。
またこうした教育を受けた人々が最終的にどうなるかと言えば、「自分たちが持っていると思っているものを、それこそ必死の形相で守る」そうだ。

うーん。いまいちピンとこない。

まずうさみのりやさんの引用。
これはもちろん確かにそうだったんだろう。少なくとも国民の50%以上が四年生大学に通い、ホワイトカラーの職に余りがなかったような時代では。現代日本では大学のユニバーサル化が起きており、その意義から見直されるべき段階にある。そして著者自身が後に述べているように、すでに日本の教育は「頑張れば頑張るほど市場から、リスクから遠のくように出来て」いない。日本最高峰の東京大学を出ても就職がない人々が大量に出ている。つまりこの意味において「安全圏入り」は確かに危険なルートとなったのは確かかもしれない。

となると、「安全圏入り」が最も危険だと主張する著者が、なぜ能力ベースで語るのかが見えにくい。

もう一つ引用箇所のポイントとして、後半の共同体の倫理に従うことが美徳であるというところに注目する。日本は系統教育主義だから、これを学んだら次にこれを学ぶべし!というのがある程度決まっているし、例えば医者や弁護士になりたければ、最低限これとこれとこれは学びましょうというのが決まっている。自身の興味を突っ走るのではなく、こうした決まった教育を吸収するスポンジと化すことで、安定した生活を得ましょうねということだろう。しかしここで主張されている共同体の倫理はかなりあやふやなものである。時が経てば変わるし、組織によっても大きく違うだろう。
(*もちろんこれは求められる能力に関してもそうで、たかだか10年ほどでこれだけスマホやらインターネットが普及する時代に、エクセルの使用法を教えるような授業がいかに無意味か、「実学教育」を主張する人々は見なおした方がいい。)

この観点から見ると、確かに医者になるための、弁護士になるための、教育を受けてきた人々は、一つの価値に依存しているかもしれないし、自身の意思ではなく安定した生活のために知識を吸収してきただけであるから、自分を自由に表現出来ないかもしれない。つまりそのような教育を著者は「心を弱くする」教育だと主張し、これの打開策として、
「古今の思想/哲学を出来るだけ幅広くとり上げ、各人が徹底的に追体験し、考え抜く、そういう教育」を提案している。

確かにこの提案は、自身と積極的に向き合う必要性を生じるから、「心が弱く」はならないかもしれない。しかし、じゃあどの思想がよいのか、哲学がよいのか、という議論を産むであろうこの提案は、最終的に広く浅い哲学教育に帰着すると思う。隔週で哲学者の反省や著作の要約をざっと流し見し、あたかも知識を得たかのような感覚を得る教育だ。
そのような教育で「第三者の客観的な眼を持ち、自分の思考や行動にとらわれすぎることなく、必用に応じて変化できることをもって成熟とし、そのような人格の形成」は不可能であろう。