太鼓眼鏡の似非教育学的考察

太鼓眼鏡のブログです。不定期更新ですが、よろしくお願いします。

【職業としての小説家②】言葉について

今日は第二回小説家になった頃を読みました。このペースで一日ずつじっくり読んでいきたいですね。

ところで今日は学祭が始まる前の最後の日曜日でした。これからは通し稽古が始まるので、なかなかまとまった休みがとれなくなります。あんまり焦らずやっていきたいです。

そして今日は気分で手にとった西の魔女が死んだを読み終えました。これ映画やったのか。あんまり見たくないね。個人的には似たような話ではキッチンの方が好きでした。方がとか言っても仕方ないんだけれど。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

 

ついでに、今は授業の関係で以下の本を読んでいます。どっちも同じ教授の課題なんだけど、すごい量出してくるもんだからもうつんでます。論文読みたいなあ。

How to Lie With Statistics

How to Lie With Statistics

 

 

Social Research Counts

Social Research Counts

 

 

 

さて、では引用。

どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列にすぎない。(中略)言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。(p.37)

これは自分が今デモの言葉に感じる違和感をそのまま表現している気がします。「安倍は敵だ!」という言葉にどれだけの高尚なスローガンがあるんでしょうか。「許さない」で始まる議論にどれだけまともな結論が導かれる可能性があるんでしょうか。そこんところが大分勘違いしてるように思います。

個人的には反対なのだけれど、デモの人達とは少し考え方が違う気がする。かといって自分で声明を表現する場も気持ちもない。ある意味他人事で薄情な立ち位置をとっています。

 

もう一つ。これは前回と同じくやはり物を書くということに関して。村上春樹さんは「風の歌を聴け」を書いたときに、まず英語で書きそれを日本語に直すことで自分の言葉のリズムを得たそうです。

そのときにはあんまり英語は得意じゃなかったけれど、持っている言葉と表現を駆使して可能な限り簡単に無骨な文を重ねていきました。自分はどうしても英文を書くときに最初から堅苦しい難しい文を書こうとする。まずは中学生でも書けるような文を重ねていき、そこから構文や接続詞のような装飾品を用いて堅苦しくしてけばいいのかもしれない。

明日から試してみようと思います。

 

では。