太鼓眼鏡の似非教育学的考察

太鼓眼鏡のブログです。不定期更新ですが、よろしくお願いします。

駄文1:言語と解釈について

いきなりの投稿が駄文だが、
今日ふと思い立ったことについて書き留めておく。

きっかけはAmazonのレビュー。
「この本の内容はとてもいいのだが、翻訳が残念。洋書の英文はかなり平易なので、ぜひそちらをお勧めします云々。」
という投稿を最近よく見ていて思うのだけど、

  1. 翻訳(邦訳、和訳)する際に、言語そのものは文化と密接に関係しているが故に、言語を変化させた時点で落ちる意味がほぼ必ず存在するのではないか。
  2. 同言語であっても、他人の言葉を別の言葉で伝え直したときに、同言語であっても全く同意の言葉を選択することは不可能に近いのではないか。
つまり上記2点は、抽象化していくと、
物事を理解し、それを別の言葉(言語問わず違う表現)でそれを吐き出したときに、
そこには必ず著者が意図したそれとは違う何かしらの意図がついて回る。
ということが言いたい(みたい)。

ここまで考えて、どこかで(確か塾講師で教えた現代文の中に)、
歴史学と文学というのはどちらもフィクションを扱っているのだ」
という内容を見た(ような気がする)。

内容を少し掘り下げると、
歴史を研究する際には、必ず現在の視点を通して過去の出来事見るわけであって、
その点において歴史的事実はフィクションとしてしか現実に存在し得ない。
というような内容であったように思う。
文学は言わずもがな。
よくセンター現代文の著者が、問をみて、こんなこと考えていなかったというあれ。

どうも、上記2点はそれなりに正しそうだ。
もう少しこの2点をよく考えることが大事なのだけど、
とりあえず今回はこの2点を前提として少し論を教育の話に移す。

まず話は多少変わるが、
母国語で知識体系を持つことはとても幸せなことのように思う。
それが日本人が英語が出来ない一つの所以でもあるのだろうけれど、
書店のほとんどが母国語で埋まる国、というのは実は少ないのではないか。
(これは後にちゃんと調べます。)

そこで話を戻すと、
翻訳の際に何かしらの解釈を必ず挟むとすると、
日本の教育はいくら西洋のそれを教えていたとしても、
そこには必ず日本語の解釈が混ざることになる。
それは日本人が教えているから、ということよりも、
日本語で学んでいるから、ということが大きいように思える。

なぜなら、日本人が教える際に英語を用いた場合、
それは日本語による解釈をさらに英語流に解釈し直したものであり、
二重の解釈が含まれたそれは日本語の解釈ではすでにないし、
何より日本語が持つニュアンスによる伝播が期待できない。
つまり、仮に発信者側が正確に自身の解釈を英語で転用できたとしても、
受信者側がその英語が持つ細かなニュアンスを日本流の下地を元に正確に読み取ることは難しい。

となれば、
日本語で何かを学ぶときに、そのコンテクストは常に日本であり、
知識を咀嚼するときも日本ないしは自身の経験をベースにして解釈している。

では例えば母国語での知識体系を持たない国ではどうなるのだろうか。
その場合、西洋発の知識体系はその土地にあった形で咀嚼されることなく、
そのままの形を保ったまま教育の場に反映される可能性はないだろうか。
特に教育のオンライン化が進む現在、ネットさえ持っていればいくらでも英語でのコンテンツを発掘できる。
自身の文化としてまだ吸収されていない知識体系を、
その元の言葉で、元の解釈のままで受け取る時、その人にどのような変化が起きるのだろうか。

単純な興味だけれど、少し気になった。